樫木知子: 女か否か

September 03, 2023 - October 21, 2023 | Ota Fine Arts 7CHOME
  • 私は女性を描いています。そう断言することにはいつもなぜか少しの躊躇がありましたが、観る人にはそれが女性であると認識されることが多かったので、特に否定することもありませんでした。顔や体について「これは女性だ」「女性らしく描こう」と考えて描いたことはありませんが、衣服についてはほぼ全てスカートでした。なぜならズボンを描きたいと思えなかったからです。とくにスカートを描きたいというわけではないのですが、かといって裸も描きたくない。つまりスカート(衣服)は'胸や股間を隠すための布'という位置づけだったのです。 (どんなスカートにするかという点でも、言ってしまえば、描きたいスカートは特にないのです。どんな衣服もその色や形や柄から、何かしらの意味や印象を見る人に与えてしまいます。白いワンピースにしても黒/白装束にしても何かしらを想起されてしまう。けれど私の目指すところは'意味のない服'ですので、考えた結果、 制服的なものが多くなりました。なぜなら制服とは強制的に'着させられる'ものだからです。そこに主体的な意志はない。) スカートに拘りが無いことを示すためにズボンも描こうと努力はしたのですが、どうしても描きたいと思えませんでした。描きたいと思えないものを描くと、線が死んだようになります。しかし最近はズボンをよく描きます。あえて描いているわけではなく、描けるようになったのです。何らかのきっかけで、ズボンが私にとって描くに値するモチーフに変化したのかもしれません。あるいは自画像か否か、趣味嗜好や性意識の揺らぎ、そういったことが関係しているのかもしれませんが、私自身はそれがどうであるのかは特に気になりません。スカートも描けるしズボンも描けるというのが悦ばしい事であるだけです。
    Come With Me, 2019, Acrylic, linen, wooden panel, 154 x 110 cm

    私は女性を描いています。そう断言することにはいつもなぜか少しの躊躇がありましたが、観る人にはそれが女性であると認識されることが多かったので、特に否定することもありませんでした。顔や体について「これは女性だ」「女性らしく描こう」と考えて描いたことはありませんが、衣服についてはほぼ全てスカートでした。なぜならズボンを描きたいと思えなかったからです。とくにスカートを描きたいというわけではないのですが、かといって裸も描きたくない。つまりスカート(衣服)は"胸や股間を隠すための布"という位置づけだったのです。 (どんなスカートにするかという点でも、言ってしまえば、描きたいスカートは特にないのです。どんな衣服もその色や形や柄から、何かしらの意味や印象を見る人に与えてしまいます。白いワンピースにしても黒/白装束にしても何かしらを想起されてしまう。けれど私の目指すところは"意味のない服"ですので、考えた結果、 制服的なものが多くなりました。なぜなら制服とは強制的に"着させられる"ものだからです。そこに主体的な意志はない。) スカートに拘りが無いことを示すためにズボンも描こうと努力はしたのですが、どうしても描きたいと思えませんでした。描きたいと思えないものを描くと、線が死んだようになります。しかし最近はズボンをよく描きます。あえて描いているわけではなく、描けるようになったのです。何らかのきっかけで、ズボンが私にとって描くに値するモチーフに変化したのかもしれません。あるいは自画像か否か、趣味嗜好や性意識の揺らぎ、そういったことが関係しているのかもしれませんが、私自身はそれがどうであるのかは特に気になりません。スカートも描けるしズボンも描けるというのが悦ばしい事であるだけです。

  • 人物を描くとすべて自画像になるという話を聞いたことがあります。たしかに、と思うところはあります。特にその人物の心情を表そうと細部(目や手先や足先)を描いているとき、その人物になったような気持ちになるような、入り込むような感覚になることがあります。描いている部位と同じ部位に意識が集中し、描きたい形と同じ形になったりします。グッと力をいれた様子を描くのに一番良い方法は、自分もその部位にグッと力を入れることです。その状態を見てデッサンするためではなく、グッと力を入れたその感覚を体感することが私にとっては重要なのです。人物が居る場所も姿態も、私自身が居たい場所だったり取りたい姿勢だったりします。 自分が体感したことが理由で描くことも、描くために体感してみることもあります。自画像と言ってしまった方が良いかも知れないと思うこともあります。しかし、私は透けるような白い肌でも、しなやかな長い手足でもありませんし、外見は似ても似つきません。これを自画像と言うには抵抗があるし、自分に似せようとしても私の美意識がそれを許しません。それでも基本的には、自画像であるべきだと思うようになってきております。描かれる人物と自分は、あまり離れてはいけないのです。私自身が変化したら、描かれる人物も変化するのが好ましいのです(これは皺が増えるとか痩せるとか太るとかの話ではありません)。自分と画中の人物との親近感の保守といいますか、距離が離れすぎないように工夫し、その結果何らかのたちで形態的に変化を続けていくべきだと考えているのです。どこかの部分でこれは私でもあると言えること、完全に客体にはならないことが重要だと感じています。
    Detail of Praying for Good Luck,  2017, acrylic, linen, wood panel, 45.2 x 25.7 cm

    人物を描くとすべて自画像になるという話を聞いたことがあります。たしかに、と思うところはあります。特にその人物の心情を表そうと細部(目や手先や足先)を描いているとき、その人物になったような気持ちになるような、入り込むような感覚になることがあります。描いている部位と同じ部位に意識が集中し、描きたい形と同じ形になったりします。グッと力をいれた様子を描くのに一番良い方法は、自分もその部位にグッと力を入れることです。その状態を見てデッサンするためではなく、グッと力を入れたその感覚を体感することが私にとっては重要なのです。人物が居る場所も姿態も、私自身が居たい場所だったり取りたい姿勢だったりします。 自分が体感したことが理由で描くことも、描くために体感してみることもあります。自画像と言ってしまった方が良いかも知れないと思うこともあります。しかし、私は透けるような白い肌でも、しなやかな長い手足でもありませんし、外見は似ても似つきません。これを自画像と言うには抵抗があるし、自分に似せようとしても私の美意識がそれを許しません。それでも基本的には、自画像であるべきだと思うようになってきております。描かれる人物と自分は、あまり離れてはいけないのです。私自身が変化したら、描かれる人物も変化するのが好ましいのです(これは皺が増えるとか痩せるとか太るとかの話ではありません)。自分と画中の人物との親近感の保守といいますか、距離が離れすぎないように工夫し、その結果何らかのたちで形態的に変化を続けていくべきだと考えているのです。どこかの部分でこれは私でもあると言えること、完全に客体にはならないことが重要だと感じています。

  • Luminous Bones, 2022, Acrylic, pastel, photoluminescent powder, wood panel 181.8 x 227.3 cm
    Luminous Bones, 2022, Acrylic, pastel, photoluminescent powder, wood panel 181.8 x 227.3 cm
  • 私が人物の肌を白いすべらかな表面で描き始めたのは近代美人画の影響が大きいです。キナリの地色に白いマットな色面と、グレーや淡い紅色の細い線で縁取られた手足の美しさ。その色彩感覚と、視ているだけで触覚が想起されるような質感。私はその絵にできる限り近づいて舐めるように鑑賞しました。その最初の視覚体験が私の美意識にくっきりと焼き付いているのだと思います。私は私の思う「美しい人」(実在の人物)を見るのが好きですが、私が描くような人物は生身の人間には存在しません。私の描く人物の美は、実在の人物を再現しようとした結果ではなく、絵画的な美(それを再現しようとすること)から始まっています。基本的には「あの美しい美人画への慣れ」から始まっていますので、肌色の明度を高めに置きつつ、地色や背景のモチーフ由来の色に対してある程度の振れ幅をもって肌の色みのバランスを取ることになります。自画像であろうとする意識的な変化が具体的な実践を伴った場合、絵画全体の色調に大きな変化をもたらすことになります。黄みの濃い肌色の固定はつまり色彩構成への縛りです。黄みの濃い肌色は、キナリ色の下地や私が好んで描く木調の色合いに近づくので、下地や背景をその黄みの濃い肌色に合うような色に変えたりモチーフそのものを変えたりする必要が出てきます。 けれども、画中の人物と私の心理的距離が離れ過ぎるくらいなら、私はそのような変化も厭わないでいたいと思います。憧れや模倣からの脱却と、自らの美意識に忠実であることのせめぎ合いの中で私の絵は変化します。また、急にズボンを描けるようになったように、今まで描きたくなかったものが急に描けるようになるかもしれません。あるいは、人間味を排除する向きをさらに極端にすることで逆に自分との心理的距離感を詰める方法もあるかも知れません。

    私が画中の人物を手放してしまわない限り、絵は私に呼応して変化してくれるものと思います。描かれる人物を「自分とは違うもの」として放棄しないこと、自画像であろうとすること、描いたものを好ましく思うこと、それらの糸の張り合いが重要です。私は常にそのように絵画と一部において一体でありたいと考えています。

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