I died a hundred times: ザイ・クーニン

Overview

ライブペインティング

6月22日(土)17:00~

オオタファインアーツでは、日本で8年ぶりとなるザイ・クーニンの個展「I died a hundred times」を開催いたします。ザイは、インスタレーション、彫刻、絵画、実験音楽、ビデオ、パフォーマンス、舞踏、舞台、詩など、様々な表現媒体を用いて分野横断的な活動を長年実践してきました。今展では、蝋で塗り固めた本を用いた立体作品とバティック染料で描いた絵画を、新作として発表いたします。

 

ザイは過去30年にわたり、東南アジアの海洋民であるオラン・ラウトやオラン・アスリの文化の衰退、ロヒンギャ難民の迫害、東南アジアにおける森林の焼失、イスラエルとハマスの戦争など、生と死が表裏一体となった多くの社会問題を考察し作品を制作してきました。近年は、2015年に父、2017年に母、2019年に長年コラボレーションを行ってきた盟友のコントラバス奏者・齋藤徹氏と、彼の大切な人々が相次いで死去したことで、さらに深く死について思いを巡らせるようになりました。2023年に重度の糖尿病と診断され、自身の死の現実と残された時間とに向き合うこととなったザイは、より顕著にその傾向を作品に反映させるようになります。

ザイは、リアウ諸島を拠点とする漂海民、「海のジプシー」とも呼ばれるオラン・ラウトについてのリサーチを続けてきたことで知られています。漁を生業とするオラン・ラウトの多くは、自分たちのあずかり知らぬところで起きた社会の発展により家を失ってきました。そんなオラン・ラウトの文化や境遇を物語る作品の集大成が、2017年にヴェネチア・ビエンナーレのシンガポール・パビリオンで発表した大規模インスタレーションでした。

オラン・ラウトとの交流のなかで、ザイは彼らが死者を陸地に埋葬すること、それも多くの場合に人気のない場所に埋葬すること、身内にわかる目印として墓石がわりに特定の植物を植えることを知ります。長老が亡くなると、普段は人が通らない河口沿いに高床式住居を模した台を建てるという古い慣習についても、老いたオラン・ラウトが教えてくれました。台は舟の形をしていたり、実際に舟を台代わりに使ったりします。柱脚が長いため台が波で流されることはありません。海の生き物に食べられたのか、海そのものに飲み込まれたのか、やがて誰にも知られず遺体は消えてなくなります。今は行われることのないこの慣習は、もはや「神話」なのかもしれません。しかしそのようなオラン・ラウトの死生観に触れ、ザイは今展の立体作品を制作しました。作品を構成する“本”は長老たちの知識、記憶、物語を象徴するものです。歴史を口承で伝えてゆくオラン・ラウトにとって、歴史書とは長老たちの頭の中にあるものです。本に何層にも塗り重ねられた蝋は、この知識を守り伝えてゆくための保護膜なのです。

これまで紙に描いてきたドローイング作品において、ザイは黒いインク、赤や茶色の鉱物顔料、黄色のターメリック、緑色の水彩絵の具などを用いてきました。しかし、今展で使うのはバティックの染料の赤のみです。それが「血」の色を象徴することは誰の目にも明らかでしょう。外見、思想、歴史にかかわらず、私たちの血は等しく赤色です。自然の摂理において私たちは生まれ、やがて死ぬということを、赤のみを用いることでザイは暗示します。さらに、赤褐色の顔料で描かれたネアンデルタール人の洞窟壁画からも影響を受けたザイは、自身の作品でも紙にシンプルかつ素朴に色の痕跡を残すことを試みています。

新作ドローイングにおけるもうひとつの大きな特徴は、赤い人体のモチーフが折り重なって生み出されるレイヤーです。それぞれの作品は人類について、そして人類の思考が生み出す影や闇についてのザイの洞察と結びついています。「昨日は今日の私たちに付きまとう影のようだ。それが明日の影になるまでは。すべては目に見えない形で重なり合っている」とザイは言います。「死後の生もまた同じようなものだろう。一方が他方に重なり合って。自分自身を含め、誰が誰かわからなくなる。」快楽を求める気持ち、身を守ろうとする気持ち、相手を求める気持ち、あるいは家に帰ることを願う気持ち。そういった人々の願望や欲望が生み出す闇が心の中を生き物のように行き交うがごとく、すべてのドローイングはザイの中で繋がり合っているのです。

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