草間彌生「クサマズ・クサマ」: 草間彌生
「クサマ」の名はいま、ホットな話題の中心にある。
全米の批評家たちの絶賛を浴びた昨年のポーラ・クーパー、ロバート・ミラー画廊での個展以来語られてきた「クサマ・リバイバル」は、60年代の美術に関する根源的な見直しをせまるほどの深みと広がりを持ったもので、来年にせまったニューヨーク近代美術館をはじめとする全米巡回展への期待はつのるばかりである。
とはいえ、草間彌生の創作の全貌は、「リバイバル」という言葉すらあっさりと超えて、つねに、わたしたちの未知」へと向かって開かれている。
彼女の作品は、フォーマリズム、ポップ、ミニマリズム、フェミニズムといった多様な角度からの視点を受け入れ、また実際、そのそれぞれにおいて世界的水準での高い評価を得てきた。この意味では、どのような見方を取るかによって、彼女の作品の見え方は大きく変わってくる、ともいえる。
けれども、草間彌生自身は、50年代から現在にいたるまで、一貫して変わりない創作の姿勢を保ってきた。無限に連なる網、増殖する水玉、果てなき鏡の間、ファルスで覆われた家具、箱、そしてヴィジョンに満ちたドローイング、パフォーマンス、映像の数々....。
このことは、草間彌生の変わらぬ創造力のほうが、変転やまない美術史的想像力を飲みこんであることを思わせる。草間彌生の作品は、美術史の断面、たとえば60年代のポップや今日のジェンダー理論に照らし合わせて評価されたり再検討されたりすることにとどまらず、そうした想像力のすべては、草間彌生の作品の総体にあらかじめ滞在していたのではないだろうか。
したがって、草間彌生の作品にある一面に沿って最大に評価することはもちろん可能なのだが、むしろ、たがいに相異なる、矛盾した可能性すら容易に共存させて、さらに別の可能性に向けて広く間口を開く、その潜在的な多様性に触れないとしたら、片手落ちのそしりはまぬがれない。
そこでは、近代以降の美術のイズムのすべてが、最大限の強度をもったまま、異なる可能性同士の矛盾をふつふつと湛えながら、時空を歪ませて共存し合っている。そして、見るものはいつしか、草間彌生の50年代が90年代と、80年代が60年代と、70年代が50年代と、50年代が80年代と、それぞれ断ちがたいループを描きながら反復され、差異化され、多様に変奏さえていることに気づくだろう。
草間彌生の創作はだから、美術史の次元でくりひろげられる永劫回帰の運動なのだ、そこでは、起源は終末に接続され、終末は起源となり、発展は増殖へと噛み砕かれ、歴史は絶え間ない反復へと飲み込まれる。そのような強烈無比なエネルギーの場が「クサマ」なのだといってもい。
たとえば草間彌生のペインティング一枚を取ってみればよい。網や水玉といった、それ自体としてはシンプルきわまりない要素が、無限に増殖し、絡み合うことによって、どこが中心とも周縁ともつかない、奥行きがあるともないともいえない、あらゆる場所が出発点であると同時に到達点ともいえるような永劫回帰の運動、絵画空間として表象されていることに気づくだろう。
しかし、すでに指摘したとおり、そのような永劫回帰の運動は、個々の絵画、彫刻、インスタレーションといった空間レベルを飛び越えて、草間彌生の創作と時代のすべてにわたる時間的な次元においても、同様のかたちで見出すことができる。草間彌生の創作活動には始まりも終わりもない。発展や展開などという陳腐な言葉は、差異と反復に場所を譲るべきである。そこでは、時間すら空間に、空間すら時間に「変身」することが可能なのである。
草間彌生の作品がもつこのような潜在的な多様性は、彼女の作品に魅せられる人の層が、世代や場所の違いをなんの障害とすることもなく、真の意味で広がっていることにも現れている。とりわけ日本においても、現代美術など日頃まったく接したことのない若い層が、こぞって草間彌生の作品に対する共感を表明するのである。時代と場所を共有しなければ理解の難しい、その意味で難解な「現代美術」が依然として幅を利かせる一方、草間彌生の作品は、一瞬だけかいまみただけでも、こころとからだに直接働きかけてくるようなおそれとよろこびで満ち満ちている。実際、草間彌生の個展会場ではしばしば、他の作家では考えられないような多様なジェネレーション、ファッション、スラングが飛び交っているのに出会う。しかし、このことですら個々の層の違いを超えた、なにか共通の碁盤が草間彌生の作品に備わっているというわけではないのだ。そこでは、たがいに矛盾する趣味や性向が、たがいに矛盾したまま、しかし多様に共存しているのだといったほうがよい。
時代や傾向による分類をあえて排して、1950年代から現在にいたるまでの作品の数々で埋めつくされた今回のオオタファインアーツでの個展「クサマズ・クサマ」は、そのような草間彌生の潜在的な多様性を経験するための絶好の機会である。それは、あらゆる「既知」への入り口であると同時に、すべての「未知」への出口であるような体験を提供する。
椹木野衣